〈生き方〉一粒の豆

◎人の心に灯をともす…より転載  


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☆一粒の豆



曹洞宗長寿院住職、篠原鋭一氏の心に響く言葉より…




交通事故でお父さんが亡くなり、小学校三年と一年の男の子、そしてお母さんが残された。


この交通事故はどちらが被害者・加害者かの判定が難しかったが、最後には母子家庭側に加害者という決定が下されたのである。


加害者側とされた三人は家を売り払って、見知らぬ土地を転々として暮らした。



やがて落ち着いたのは農家の納屋。


親切な農家が見るに見かねて貸してくれたのである。


ムシロを敷いて、裸電球をつけ、小さなガスコンロとダンボール箱の食卓だったが、三人はとてもうれしかった。



育ち盛りの男の子二人をかかえてお母さんは、昼は学校給食の手伝い、夜は料理屋の洗い場へと、寸暇を惜しんで働いたのだが、やがて限界がやってきた。


「これ以上働けない!申しわけないけどお前たちをおいてお母さんは死にます」


こう決めたお母さんは、家事のすべてを引き受けてくれる小学校三年の長男に最後の手紙を書く。



…お兄ちゃんへ、おなべのなかに豆がいっぱい水にひたしてあります。


今夜は豆をにておかずにしてください。


豆がやわらかくなったら、おしょうゆを入れるのですよ…。



深夜家に帰ってきたお母さんの手には、多量の睡眠薬が握られていた。


足元には枕を並べて眠っている兄弟の顔が見える。


よく見ると長男の枕のそばに一通の手紙が置かれていた。


思わず手に取って開いてみると…、



…お母さん、ぼくはいっしょうけんめい豆をにました。


おしょうゆも入れました。


でも夕食のとき、弟はしょっぱくて食べられないといって、かわいそうにごはんに水をかけて食べたのです。


お母さんごめんなさい。


でもぼくを信じてください。


ぼくは本当にいっしょうけんめいにたのです。


お母さん、お願いです。


ぼくのにた豆を一つぶだけ食べてください。


そしてもう一度、豆のにかたを教えてください。


お母さん、今夜もごくろうさまでした。


お休みなさい。


さきにねます…。



長男の煮た豆を一粒一粒食べるお母さんの目から大粒の涙がとめどなく落ちた。


大声で叫びたい気持ちをおさえて、お母さんは心の底からわが子にあやまったのである。



「ああ、申しわけないことをした。


お前がこんなに一生懸命生きているのに、お母さんは自殺しようとしている。


申しわけない。


ごめんね。


お兄ちゃん。


お母さん、もう一度頑張るからね」



袋の中に、豆が一粒残っていた。


この時からお母さんはこの一粒の豆と長男の手紙をハンカチに包み、お守りにして肌身離さず持っていることにしたのである。


この夜から二十年。


三人は貧乏のどん底から抜け出し、長男と次男は東京大学を卒業。


たくましい社会人となった。



一粒の豆は、今もお母さんの懐(ふところ)深く大切に持ち続けられている。


母の自殺をとどめたのは、長男の一途な思いである。


どこまでも母を親として信じ、尊敬している孝順心に他ならない。



千葉・九十九里浜の荒波の中に幼児と共に自殺しようと身を沈めたとき、子どもが母親の髪の毛を強く握りしめ、幾度も引っぱったことから自殺を思いとどまった若いお母さんを知っている。


この母もわが子に救われたのであった。


母を救った“わが子”は菩薩さまに違いない。



『本当の話』興山舎






「菩薩行(ぼさつぎょう)」という言葉がある。


慈悲の心を持ち、他人の幸せをひたすら願って行う利他行のことだ。


自分の利益や欲望だけを満たそうとする利己の行いではない。



もうこれ以上ダメだと行き詰まったとき、もう無理と全てを投げ出したいと思ったようなとき、はっと我に返る瞬間がある。


自分を客観的に見ることができる何かのきっかけがあったときだ。


とらわれ、視野が狭くなっているときには、大事なことは見えず、気づかない。



最後の最後に、全てをさらけ出し、無心になったとき…


救いの手がさしのべられることがある。




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